2016 6月にワイナリー チェレットを訪ね、ホテル サン・マウリッツィオに宿泊した際の旅行記です。
ピエモンテ(伊Piemonte)という名前は中世ラテン語のPedemontiumに由来していて、直訳すれば山の足、つまり山裾のことを指す。
北にスイス、西にフランスと接するこの州は、その地理的環境が示すように、異文化、主にフランスからの影響を受け、独特の文化的発展を遂げてきた。
これはイタリアのみならず全世界的に言えることだと思うが、他国との国境に栄える州や地域は、異文化とブレンドしつつも生粋のアイデンティティーを持つ事がよくある。
ここピエモンテは、表面的なイタリアらしさ、例えばナポリの海もヴェネチアのゴンドラも持たないが、愛国心と伝統への敬仰に満ちたイタリア精神はこの土地の地下水脈の中にしっかりと流れ続けている。
日本の世界史教育ではあまり注目をあびないトピックだが、イタリア人にとってはこれ抜きでは国を語れない波乱万丈に満ちた歴史的出来事がある。
実際、多くのイタリア人はこの話題が大好きだし、皆、詳しく知っている。
それは、「リソルジメント」と呼ばれる。中世以降小国に分裂していたイタリアは19世紀に入り、イタリア統一運動(リソルジメント)という社会運動の時期を迎える。
この時、対フランス戦において、ローマの豪傑はもとより、大活躍を見せたのはジョゼッペ・ガリバルディ率いる北のロンバルディア、ピエモンテ、リグーリアの義勇軍であった。
フランスやオーストリアに国境を脅かされ、支配下におかれることもあった州民たちの、自国を取り戻そうという愛国心からの行動だったのだと思う。
その結果、建国されたイタリア王国の最初の首都は、現在のピエモンテ州の州都であるトリノとなった。
これは統一イタリア建国に大きく貢献したヴィットーリオ・エマヌエーレ二世がもともとサルディーニャ国王でその首都がトリノであったためである。
数年後には投票によりフィレンツェへの遷都(その後、ローマ)が決まるが、現在まで続くイタリア共和国の源となったのはトリノを中心とするサルディーニャ王国であった。
ガリバルディと並び、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世という人物は、統一イタリアの「国父」とされ、イタリアでは様々な都市で通りの名前になり、国民に慕われている。
ローマには立派な記念堂があるし、ミラノのアーケード、「ガレリア」も、正式名称はGalleria Vittorio EmanueleⅡ(ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世のガレリア)だ。このような背景を考慮にいれても、やはり、イタリアの歴史はピエモンテ州なしでは語れない部分がある。