恵比寿にあるイタリア料理店、マジカメンテ。
心(メンテ)に魔法(マジカ)をかけるというこの店名には、何ということはない小麦の粉が、パスタというファンタスティックな料理に変貌する、その奥深い意味が語られています。
食べる人の心に変容を起こす。この魔法がどこから生まれているかといえば、シェフの佐藤さんがイタリアのマンマたちから直に学んだ、家族と密着した暮らしの様、そうした時間の緩やかな流れにその源流があります。
日本のイタリア料理界で一線に立つシェフでありながら、実は彼は、家族経営の店を除いて、現地のリストランテではほとんど修行をしていないのです。
じゃあ何をしたかというと、家族のために毎日料理を作るイタリアの女性たち、現地のマンマ(お母さん)やノンナ(おばあちゃん)の家庭を巡ったのです。
そうした各町の料理上手の女性たち、その紹介とツテを巡りながらイタリア全土の家庭を巡り、そこでともに生活し、ともに買い出しに行き、ともに料理をしてきたのが、彼のイタリア修行だったのです。
これは一般的なシェフとはまるで違うアプローチです。イタリア郷土料理の本質に、これほどまでストレートに入っていったシェフはいないのかもしれません。
サンマリノ共和国大使が、マジカメンテを「プロフェッショナルな本物のイタリア料理店」として認定したのには、イタリア人にとっての故郷の姿がそこにあったからです。
そもそも、どうして佐藤さんは、そうした独自のルートを料理人の道として取るに至ったのか? その経緯を訊ねてみました。
PROFILE
佐藤 崇行(さとう たかゆき)
マジカメンテ オーナーシェフ。
「パスタ大好き!」のショートパスタとソースをプロデュース
16歳より料理人を目指す。都内で腕を磨くなか、三たびイタリア現地に赴き、修行の旅を重ねる。イタリアではもっぱら地方のマンマやノンナを訪ね、現地に住む女性たちから直接、クチーナ・テリトリアーレ(地元の料理)を学ぶ。2011年、恵比寿の「アンティカ オステリア マジカメンテ」の料理長兼店長に。
18年には、同店の移転開店にあわせて独立。移転前、移転後の両店において、サンマリノ共和国大使より「プロフェッショナルな本物のイタリア料理店」に認定される。イタリア郷土料理の伝統であるマンマの味を、鮮やかなスタイルで描き出す名人。
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マンマのパスタ
—どうしてレストランではなく、マンマのもとでのイタリア修行を選ぼうと思ったのですか?
手打ちパスタは、向こうのレストランでは実質的にお店のスタッフで作っているところは少ないんです。朝7時ぐらいにマンマが来て仕込み、ランチ前に帰ったり。最初に僕が教えてもらったリグーリアの製麺所のマンマたちがそれで、午前中に仕事を終えちゃう。そこだけかと思ったら他もみんなそうで、料理人がパスタを作ってるお店が少ないことを知ったんです。買ってくるか、専属の人たちが朝来て仕込んでるか。
そもそも僕、イタリア料理といってもパスタにしか興味がなかったんです。なんでかというと、手打ちパスタが個性を一番活かせると思って。蕎麦やうどんもそうですけど、誰が打つかで味がまったく違う。パスタもそうだろうと思って、実際やってみたら、そうだったわけですよ。
当時(2000年頃)は手打ちパスタのおいしくないお店が日本にはいっぱいあって、それは本を見て作ってるだけだから、実際には何もわかっていなかっただろうし。しかも手打ちパスタが日本に普及してなかったから、教わる人がいないんですよ。それで勉強したくて、4ヵ月ぐらいイタリア中のマンマのもとを渡り歩いたんです。
— 料理人の世界に入ったのはいつですか?
高校一年の夏に学校をやめて、アルバイトを始めたのが最初ですね。ファミレスで働いて、シニアという立場に、有名企業のファミレスグループの最年少記録でなって、発注業務とエリア担当になったんです。それが17ぐらい。そうなったらもうつまらなくなって、そのファミレスで一緒に働いてたパートのおばちゃんに「料理人に向いてるからやってみなよ」って言われて、そのおばちゃんの行きつけのレストランを紹介されて。それで転職したんです。
そこは和食と洋食のセクションがあって、僕は洋食だったんですけど、当時は何料理とかそういうのは知らずにそこで普通に作ってたものが、フランス料理とイタリア料理みたいになってたんです。
その店のシェフがどうしようもない人で(笑)。機嫌が悪いからって、出刃包丁の峰で殴られて、頭パックリ割れて流血しながら仕事したこともありますし、業務用のチャンバーっていわれる大きい冷凍庫に一日閉じ込められたこともありますし。
— ええ…マジですか。めちゃくちゃな話じゃないですか。メンタル、折れなかったですか?
建設業に行った友だちがいて、「けっこうひどい、鉄パイプで殴られる」って言ってたから、あ、飲食もそういう系統の世界なんだと思って。折れなかったですね。ただ、血めっちゃ出てるし、ひでえなあとは思いましたけど。まあ飲食業界って理不尽なことが多い世界で、もっとひどい人達もいっぱいいたし、殴る蹴るは普通だったから。
そのシェフがパスタを作るのが下手で、「もっと美味しいものを作りたいな」と思ったのが、手打ちパスタに興味を持った最初。ただ形式上の作り方は本とかで自分で勉強して知れても、何が美味しい手打ちパスタなのか、当時はその基準がないから、わからない。
結局、その店では1年働いたんですけど、そのときに和食もやりましたし、その後もいろんな店でやりましたね。パン屋も研修に行ったし、洋菓子屋さんは一年ぐらい働いてたし、フレンチは友だちのところでやったり。けっこうなんでもやりましたよ。
— その中で、生パスタに興味を持つようになってイタリアンの世界へ?
そうですね。ただ生パスタ自体は、日本で人に教わったことはないんですよ。僕のパスタづくりは100% イタリア人に教えてもらったものなんです。
リグーリアから始まって、ピエモンテへ行って、ピエモンテからヴァッレ・ダオスタに行って、そこからトレンティーノ=アルト・アディジェという感じで、いろいろマンマを紹介してもらって。そのあとロンバルディアに行って、フリウリのほうからヴェネトを回って、南へ降りて行くんです。サルデーニャ以外は全部回りましたね。
— 普通の料理人のイタリア修行とはかなり毛色が違いますよね。
みんなレストランです。「どこどこのレストランで働きたい」って言って、メールを送ってアポとって。だけど結局、それだと一年経っても何もできないことが多いんですよ。言葉もわからないし、皿洗いか、荷物が来たときに荷物をしまってるだけ。雑用です。半年ぐらいで覚醒する人もたまにいますけど、それでもパスタ場はやらせてもらえない。向こうの人たちはパスタ場を簡単に預けないんです。
日本とイタリアではパスタの位置がちょっと違うんですよね。日本だと「練習だから」みたいな感じで簡単にランチタイムにパスタ場を下の人間にも預けちゃうんですけど、イタリアだとパスタ場は魂の部分なので、シェフや二番手の人がやったりするんです。
—イタリア語はどう学びました?
日本で半年ぐらいイタリア語を勉強してから行きました。当時は今ほどイタリア語を話せる人が日本にいなくて、個人のアパートへ行って教えてもらったりして。テキストとかもなくて、口頭で。僕もお金を持ってなかったので、月5000円ぐらいで教えてもらってました。
で、イタリアへ行ったら日常会話がほとんどで、三日目ぐらいになると、もう息子状態なんですよ。そこでパスタ作りを教わりながら、イタリア語もだんだん覚えていって。そのときがいちばん喋れました。
— 行き先のアポをとってから渡ったんですか?
いや、リグーリアの製麺所が雑誌で紹介されてるのを見て。その雑誌を持って、製麺所へ飛び込みで行って。ジェノアCFC に三浦知良が入って間もないころで、ジェノヴァの人が日本人に優しかったんですよ。最初のあだ名は絶対カズってつけられる(笑)。そこの製麺所で15日ぐらい。ご飯も出してくれるし、「ここに泊まっていけ」って、寝るところも用意してくれるし。
そのあと、「ピエモンテに私の友人がいるから」ってマンマを紹介してもらって、次はそこでタヤリンとかアニョロッティを教えてもらう。そうやってどんどん人の繋がりで次のマンマを紹介してもらって、イタリア中を渡っていって。
で、そのときにパスタだけじゃなくていろんな料理が出るわけですよ。前菜があって、メインがあって、デザートが出るのが向こうの家庭料理の定番なんで。それでパスタ以外の料理も自然と覚えていったんです。一緒に買い物も付き合わされたりして、マニアックな食材もいろいろ知りましたし。現地のマンマと一緒に朝からやるので、調理工程も全部わかるんです。
—イタリアの家族が食べるリアルな地元の料理を、現地で暮らす女性たちから学んだんですね。
そうです。結局それがいちばん美味いんです。なんでかっていうと、レストランっていうのは原価があるじゃないですか。だから作れるものが決まってて、仕込みの時間も決まってる。だけど家っていうのは、その家族のために最高のものを食べてもらいたいっていう家族愛で作るから、時間は関係ないんですよ。2日間ずっと、薪暖炉で火にかけてるような料理もある。だからめちゃくちゃ丁寧なんです。その差はでかいですね。だから僕の中では、レストランってそんなに意味がないんですよ。
しかも「あの町の誰々さんは料理上手だから」っていうのがだいたいあるんです。料理上手のマンマはその町の有名人なんで。
僕は星付きのレストランにも興味がなかったし、マンマのそういう料理で十分だったんです。途中で畑仕事へ行ったり、掃除をしたり、買い出しに行ってばったり会った知り合いと何時間も喋ったり。それが終わるとまた料理を作り始める。そんな風なんです。
—イタリアへは何回行かれたんですか?
3回かな。1回目は4ヶ月ぐらい回って、その次は3ヶ月ぐらい、そのあとサルデーニャに1ヶ月行って。
初めて行ったときから比べると、イタリア料理も日本に普及してきて、こんな料理があるとか、だんだんとわかることも増えてくる。そうすると答え合わせしたくなるので、実際その町へ食べに行ってみたり。あとイタリアでは食材のチーズ工房とかサラミとか、生産者さんのところもけっこう回りましたね。
— 佐藤さんの、生産者さんを重視する意識はどういうところから生まれたんですか?
もともと僕は、何がどう作られているかっていうのを知らないとその食材を使わないんです。スタッフにも言うんですけど、バルサミコってどうやって作ってるの? パルミジャーノってどうやって作ってるの? ケッパーは? トマトホール缶は? 答えられなければ、その食材に対しての価値を最大限発揮できないと思うんですね。製造工程を知らなければ、使い方を知らないのと一緒だから。
そういうふうに考えていくと、こだわりをもってる生産者さんの方がより丁寧だし、情熱も大きい。だからその価値観っていうのは、自分たちも伝えていかなきゃいけない。こういうことはイタリアでも同じなんです。
—料理上手で評判のマンマは、やっぱり食材もいいものを知ってますか?
知ってますね。あの人たちはスーパーとかであんまり買わない。チーズ工房とかを訪ねて自分で買うんです。野菜も農家のところへ行って直に買うんです。で、そこで無駄話を2時間ぐらいして帰ってくるんですよ(笑)。
一日が料理を作ることと食材の買い出しで終わるんです。そういうものなんです。料理が好きなマンマにとってはそれが普通なんです。
—佐藤さんはレストランをやられてるわけじゃないですか。マンマの家庭料理のようには時間を回せなくないですか?
いや、それを僕はやってるんです。だから「アホだね」って言われるんですけど。でも時間は惜しまない。端折るっていうことはしない。イタリア人のお客さんにはよく言われるんです、「女性のシェフが作ってるんですか?」って。「うちのマンマと同じ味だ」とか。
パスタって現代の調理法にできない料理なんですね。例えばパスタを練るっていっても、機械で練ると空気が入らないんです。機械で圧力かけてプレスすると工業製品の味になるんです。だからうちは全自動のパスタマシーンもあるけど、手打ちパスタを主体にしてるって言うのはそこらへんにあるんです。
いちばんいいのは麺棒だけで伸ばすっていう作り方。それは食感もすごく変わります。それをやってるのは今ではエミリア=ロマーニャとピエモンテくらいなんですけど。やっぱり麺棒で伸ばしたパスタがいちばん美味しいですね。気泡も細かく入るんで噛んだ瞬間に香りも変わってくるんですよ。
— 今取り組んでいること、これからやっていきたいと思っていることは?
パスタマシーンでのパスタ生産は一つの目標だったんですよ。日本にイタリア現地のようなパスティフィーチョ(パスタ屋さん・製麺所)を作りたいっていうのがあって。
機械で作るわけですけど、通常は材料を機械に全部ぶちこむだけなんですけど、僕は別に生地を練って入れてるんです。そこは手打ちパスタの応用。粉と水分、一粒一粒をなじませてから入れて、プレスする。そうすると香りも違うし、まだらになったりしないので。あと鶏卵じゃなくて鴨の卵を使ったり。
そういうのを今すぐではないけど、ちゃんと事業としてある程度形になるぐらいにもっていきたいと思ってるんです。レストランっていろんなものに煽りを受けやすいじゃないですか。コロナの件もそうですけど、波があるので事業としてやりづらい。自分がずっと現場に立っていられるのかという問題もありますし、従業員を保持できてしっかりと給料を払い続けられる。そういう経営を続けていくにはある程度安定した外部収入が必要で、そういう意味でもやりたい。そしてイタリアの有名パスタメーカーにも負けない生麺の美味しさを手軽に知ってもらいたい。それが理由ですね。
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